新聞は消えるしかないのか

前職の新聞記者時代、周囲によく聞いた質問がある。「新聞がインターネットに比べて優れている点は何か」という問いだ。あなたなら、どう答えるだろう。

反対にインターネットが新聞よりも優れている点ならば、いくらでも挙げられる。記事を書けば瞬時に読者に届けることができるし、文章や写真に加えて音声や動画、データベースまで配信でき、さらにその容量も無制限。新聞のように配達網を整備する必要がなく、全世界を相手に一瞬で情報が届き、その流通コストはほぼゼロ。コピーを取って回覧する手間も不要で、簡単に共有できる。読んだ後も場所を取ることなく、いつまでも保管できるし、検索も容易だ。

まだまだあるが、話を戻そう。では、改めて新聞が優位な点とは何だろう。私の周りで圧倒的に多かったのは、「新聞は広げて読むので、素早く気になる記事が目に飛び込んでくる。世の中の動きが掴みやすいし、意外な記事との出会いがある」という回答だった。日本の新聞は、見開きでA1サイズに近いブランケット判が一般的で、大型化しているとはいえ、スマートフォンやタブレットの画面サイズに比べると圧倒的に広く、情報量が多い。

しかし、それは本当に新聞の本来的な強みだろうか。もし新聞紙のように薄くて軽く、折り畳みも可能なブランケット判サイズのディスプレイが誕生したら、どうだろう。結局はデバイスの問題であり、新聞がインターネットに比べて本来的な強みとは言い切れない。

つまり、新聞がインターネットに比べて優れている点はほとんどない。残念ながらこれは紛れもない真実だ。

では、新聞社は消えていくしかない存在か。個人的には必ずしもそうは思わないし、そうであって欲しくない。新聞は元々、情報を届けるためのビークル(乗り物)だったはずだが、それがいつのまにか目的化してしまったことが問題の根源ではないだろうか。

新聞社の本来の目的は、読者にとって必要な情報を届けることであり、その手段が新聞であろうと、インターネットであろうとビークルの違いに過ぎない。新聞社の再興は、「新聞紙ファースト」という古くなった考えを捨て、インターネット時代に活字と写真をベースとしたコンテンツを生み出すメディアとして自らを再定義できるかどうかにかかっている。