人を疑うのって疲れる

日常的に使われる言葉に「性善説」と「性悪説」がある。性善説は「人を信じましょう」、性悪説は「人は疑ってかかりましょう」ということではなく、性善説は「人は生まれた時は善だが、成長すると悪行を学ぶ」、性悪説は「人は生まれた時は悪だが、成長すると善行を学ぶ」が正しいそうだ。

だから性善説とか性悪説という言葉は使わないが、人をマネジメント(管理)する場合、管理される人たちを「信じる」か「疑う」は実に悩ましい問題だ。GPS(全地球測位システム)機能付きのスマートフォンなどが普及し、管理しようと思えば、どこまでもできてしまう時代だけに、監視し始めると際限がない。

従来の尾行などに比べて疑う(監視する)費用は大幅に下がったが、疑い、疑われることの精神的な苦痛は変わらない。「信用されていないのでは」とか、「疑われているのでは」とか常に気にかかる管理される人はもちろん、「どこかでさぼっていないか」と気が抜けない管理する人も疲れるばかりだ。「疑い」「疑われる」関係はお互いの精神を摩耗させる。

やはり管理する者と、される者は「信頼」を基本に置くべきだ。「オマハの賢人」と呼ばれるウォーレン・バフェットは、投資対象を慎重に吟味し、いったん取得すると長期保有する基本スタイルを貫き、成功してきた。企業においても、採用時に安易に妥協することなく、入り口で一緒に働く仲間をしっかりと厳選し、採用後は信頼をベースとした長期的な関係を構築する。理想論かもしれないが、せめて自分の会社は、そんな会社でありたい。